心と体

人間の実相

宗教を語る時に、人は皆、自分の置かれている立場を忘れている。

と言うことが出来ます。

美味しいものを食べて、旅行をして・・・・健康に長生き。

また、いつまでもお幸せに!

なんてことも言います。

これは、自分の置かれている立場が分かっていないと。

生老病死。

人間の免れることのない現実です。

頭の中では分かっていても「そんな暗いことは言うなよ」なんてなります。

土曜日に名古屋へ向かう新幹線。

「そのまま・あるがまま」をやっていますと、自分の実相と言うものを感じれるようになりまし

た。

生きている誰にでもあるが、みんなそれに気が付かないで生きている。

生老病死も実相ではありますが、もっと身近な生の実相です。

インドの聖者ラマナマハリシが本の中で

「見るものと、見られるものと、心」と書いているのを読んだことがあります。

自分の体験からも「そうだよな」

花を見て、きれい!と心が湧く。

それが心の反応です。

それは随分前から感じてましたし、これを頭の中で感じるのはそれ程難しくないと

思います。

そのことが、そのまま自分全体で感じられたようで、自分の実相、人間の実相、

と感じました。

生老病死は頭の中の考えのことです。

が、自分が「今」「今」生きていて、私と思っている私とは・・・・・

周囲のものに止めどなく反応し、それを抱き込んで弄り回す。

そんな心を見ている、そんな心が存在している、そのところ。

この位置関係が、ハッキリとしました。

と言っても、湧いて来る心が気にならなくなった訳ではありません。

相変わらずの地獄絵です。

名古屋で、やさしい・しんらん予備校井上さんとお話し、

このことを話しますと「そこを継続しなさい」と言われました。

ラマナマハリシは「私は誰かを尋ねなさい」と言いますが、

その「私」、最初のエゴ、と言われる「私」が

この自分の実相なのかとも思っています。

実相では、もうそれで、そのままで、探すことも、求めることもありません。

生まれた時からあったところに気が付いただけです。

誰もが、そこで生きています。

継続です。

| | トラックバック (0)

燻される

特に大きな変化はなく経過しています。

自分の中では少し変化の感じはありますが、文章にして書くほどのものではありません。

「燻される」とでも言いましょうか、慌てても、それは弄り回すことになり、

なるべく頭の風通しを良くして、このままでいることしかないようです。

| | トラックバック (0)

本当の自分としたしくする

前回ブログを書いた時は、連休のドサクサで不調になってました。今、思えば。

連休前は、ある程度風通しの良い状態を、

良くない状態と繰り返しながらも出来ていましたが、連休で少しおかしくなって、

何か?と動いていたようです。

その後は、風通しの良い状態と良くない状態を一日の内で繰り返しながら送っている感じ

です。風通しの良い状態の割合を増やして行きたいのですが、目に見えてとの増加は、ま

だないようです。

以下は、やさしい・しんらん予備校 井上さんへのメールと返信です。

.・

風通しが良ければ良いほど自分のどうしようもない心が分かります。

かといって、風通しを良くしているだけでは、我が心に振り回されない、

なんて心境にもなりません。

風通しの良い状態でありながら、またやっちゃった、なんてよくやってます。

将来的に、どのような感じで、自分の心に振り回されなくなるんでしょうか?

井上さんからの返信

そのどうしょうもない心をどうするのでなく、

どうしょうもないままにしておくより方法はありません。

心に振り回されている自分こそ、本当の自分です。

その本当の自分としたしくするのです。

そうすれば、振り回されていて振り回されてない自分に気付くのです。

「本当の自分としたしくする」とは?

こんな時は、鬱陶しい亭主さんの「弄り回さない」が役に立ちます。

「?」をそのままにすれば、自然と風通しのよい状態です。

風通しの良い状態を維持すれば、本当の自分としたしくすることになると思います。

継続です。

| | トラックバック (0)

何かをしてしまう

ゴールデンウィークは、なんやかんやとバタバタしてあまり進歩がありませんでした。

連休も終わり、月曜日から「頑張らねば」とやっていますが、どうも調子良くありません。

頭の風通しの良い状態が少なく、弄りまわして(鬱陶しい亭主さん)おります。

どうもおかしい。これじゃブログを始める前と同じだが。

と、昨夜は検証してみました。

これを続けていると「風通しの良い状態をなるべく長く保ちたい」とは思っています。

思っている我(われ)がいます。

これは無くそうと思っても仕方ない、どんな思いも自分の意志とは関係なしに湧いてくるの

で、覚りたい!も、旨いもの食いたい!も、湧いている時は仕方ないのです。

「・・・したい」と思うと「どうやって、良い方法は」と次に回転して行きます。

それを、そこでそのままにしてやらないと、ついつい「こうか!」となって、少し何かを

やってしまいます。

やさしい・しんらん予備校井上さん

「、悩みのもとである意識・認識・心の働きそのものにとらわれて、その意識・認識・心の働

きの外に一歩として出られないということでした。つまり、心の働き自体が、心の働きの微

妙で自在な活動に惑わされて、そこから少しも出られず、心の働き・認識・意識の中にあっ

て、意識の内容だけを問題にし続けていたという事に気づいたのです。そこで、わたしは、

意識の内容など問題とせず、「なにもしない」ことに集中しました」

マジ」にも書きましたが、以前、井上さんからのメモにありました

「煩悩を観察する、感じる、見るとは、ああ これで良いとか、ああだめだとか、状態を自分

で意識してしますと、依然として自分の言うものが残って、自分と言うものがあって、そうい

う状態を見つめているということです。

経験した、体験した状態と言うものを認める自分があるからだめなのです。

進歩がないのです。

これでは無我、信心の真っ只中とは言えません。

いったん経験したもの、体験したものは、捨てて行かなければなりません。」

ここと同じことと思います。

ここは本当に大事と思いますが、ついつい何かをしてしますのです。

してないようでしてしまうのです。

仏教ブログzenkyuさんに

「自分の心をただ観察するだけでよい。観察するだけでよいが、これがなかなかできそうで

できない。わたしがわたしの心を見るのではなくて、仏さまに見ていただくように念仏す

る。」

とありますが

「自分の心をただ観察するだけでよい」とあって「わたしがわたしのこころを見るのではなく

て」とあります。

「わたしがわたしのこころを見て」でも良いように重いますが、

ではなくて「仏さまに見ていただくように念仏する」と書いてあります。

ここも上に書きました「何もしない」と同じことになると思います。

「仏さまに見ていただくように」とは?と考えますと弄りまわしてしまいます。

何も気にせず「意識の内容など問題とせず(井上さん)」

「自分のこころをただ観察する」「仏さまに見ていただくように」を忘れて

頭の風通しをよくして、弄りまわさなでいれば、それが「仏さまに見ていただいている」

になっていると思います。

自分から「仏さんは見てるのかな~」なんて考えてしまうとおかしくなります。

昨夜は、結局、すこし「何かをしていた自分」に気付き、「何もしない」を気を付けたところ、

テレビを見たり、パソコンで探し物をしていても風通しの良い状態をある程度続け

られるように回復しました。

と言っても、まだまだです。

が、これから・・・

と考えますとおかしくなります。

「なにものにも思いを寄せず瞬時瞬時を切り落としていく努力、今に遅れない努力でした(井上さん)」

今、風通しが良いか、この継続です。

| | トラックバック (0)

いつのまにやら

「頭の風通しの良い、弄り回さない」を継続していますが、長時間続けると言うよりも、短時間

で、風通しが良かったり、悪かったりを繰り返す感じで進んでいます。

眠りに入って行く時が無意識であるように、この状態も、無意識に繰り返す感じで、今の状態

を維持しようとしても、維持しようと努力していれば弄り回してしまいます。

風通しが良いも、良くないも 「おまかせ」のような感じです。

急速な進歩は感じられませんが、変化は感じています。

継続です。

| | トラックバック (0)

う~ん

本当にご無沙汰しております。

3月は仕事的に年間で一番忙しい時期だったと言うことは、言い訳になってしまいますが、

「維持」出来ないところで糞詰まっています。

やることが分かっていながら、すぐに巻き込まれます。

あれこれすることはないとは分かっていても、イラダチのみ続きます。

本当に牛歩でありますが、ここ一歩抜け出たいとやっております。

継続しております。

| | トラックバック (0)

AからBへ

週先の木曜日から日曜日まで、大学時代の後輩とその友人が遠方から遊びに来ていまし

た。ゴルフと飲みの連日で、まったく空白な求道でありました。

日曜日の午前中に飛行場まで送って行き、その後、やっと体制が取れた次第です。

以前のように「続けよう!」とか「この心!」とか、動きが少なくはなっていますが・・・

やさしい・しんらん予備校井上さんが言われたように「今の自分の状態以外に求めない」

これは「実は、すでに悟っている、今の自分の状態以外に求めない」と解釈したこともあり

ますが、「今、湧いている心の状態以外に求めない」とも取れると思います。

以前は前者の解釈で書いたこともありますが、今は、求道の身、後者の解釈でいいので

はと思っています。

何度か書いたかも知れませんが「悟ろうと思わなければ悟れないが、悟ろうと思っているう

ちは悟れない」

と言う言葉がありますが、これになります。

辛い出来事、辛い現実、それをどうにか変えたいと思いますが、どうしようもない時、

この世とはかけ離れた「悟り」なるものを求めたいと思う場合もあります。

私もそんな一人です。

その過程の中で、この世を変えるのではなく、問題が単に自分の心にあることに気付いて

来ました。

この心の収まり所がないわけです。

内観を通して心を自覚すればするほど心は辛く感じます。

これまで人生を楽しむためにあった快楽を求めようとする心さえも、苦痛でしかなかったと

理解できるようになりました。

しかし、この心の収まりはついていません。

「この心、いったいどうすればいいのだ?!!!!」

昨日鬱陶しい亭主さんの初期の文章を読んでおりました

が鬱陶しい亭主さんの文章からです。

あるがまま・そのまま」の実践についてはリンク先をご覧ください。そこにすべてが書かれ

ています。私が付け加えることは何もありません。

私は、10年前に初めてやさしい・しんらん予備校の文章を読み(鬱陶しい亭主さんよりも前

です)以後、井上さんと直接お話しさせて頂いておりますが、まだ迷っております。鬱陶しい

亭主さんが書かれているように、私が付け加えることはありません。と書けることが、私の

辛さにもなるのですが、あえて、鬱陶しい亭主さんをこの道のエリートとしまして、私のよう

にうろうろしている、牛歩求道者の方もおられると思い、共に歩んで行きたいとブログを書

ています。

次に「下手にこねくり回さずにただひたすらピュアに悩んでいることができるなら」とした部

分についての考え方を述べさせていただきます。

まずこの世は諸行無常であるということが大前提であると思っています。単純に申し上

げますと「A」は永遠に「A」であり続けることができないということです。「A」は時間の経過

により必ず「A」であることを終えます

ある程度心を見ることが出来ると、心はこの世と同じように変化するものであるとの認識

は出来ると思います。

すなわち「苦悩A」は「苦悩A」である限り必ず「苦悩A」であることを終えると思います。「ピ

ュアに悩む」という意味は「苦悩A」を徹底して「苦悩A」のままにしておくことに他なりませ

ん。苦悩を解消しようとしてジタバタしてはならないのです。

おそらく「あるがまま・そのまま」ができないとおっしゃるのは「苦悩A」を弄り回して「苦悩

B」にし更に「苦悩C」へ「苦悩D」へと変えていってしまうからではないでしょうか。それでは

いつまでたっても転変を繰り返すばかりで落ち着き先はどこにもないであろうと思います。

理屈では分かっていると思っている方も多いかと思います。私もそうなのですが、

心の習性として、苦悩Aが出ると反射的に苦悩Bへ変化します。取り除こうとする心が生ま

れます。ある意味苦悩A+Bのような混合体になります。

「悟りたい!」もこれです。元の苦悩Aと「悟りたい!」の苦悩Bが混合し、「どうしたら?」の

苦悩Cがくっついて苦悩Dとなります。

悟りに方法は、出口はありませんので、この苦悩Dで苦しむことによって道は進んで行くの

だと思いますが・・・悟ろうと思わなければ悟れない、はここのとこだと思います。

それではいつまでたっても転変を繰り返すばかりで落ち着き先はどこにもないであろうと

思います。

悟ろうと思っているうちは悟れない、はここのポイントの転換が必要と思います。

私もそうですが、ここでつまずいておられる方もおられるのではないでしょうか。

「悟ろう!」も苦悩なら、変化して行くはずです。

『この方法で、いいのかなあ?と思ったら、その思い、その思いがわいている

「今の状態」を維持するのです。』井上さん

これは日常に色々湧いてくる苦悩でも同じと思いますが、

そうか、その思いをそのままにすればいいのか、とそのままにしようとする苦悩が

くっついていると鬱陶しい亭主さんの言われる

それではいつまでたっても転変を繰り返すばかり、です。

ここの微妙な苦悩のくっつきを無くして、単純に「今の自分の状態以外求めない」

ことをすることではないかと思うのです。

自分にとってのポイントは、苦悩もこの世と同じように変化して行く。です。

以前、井上さんとお会いしてお話した時「苦悩は放っておけば無くなりますよ」と言われまし

た。

それくらい分かってますよ、ちょっとした心ならそれが、それくらい理解出来るけど、どひゃ

~とした心が湧いたら吹っ飛んでしまうから、どうしたらいいのか聞いているんじゃないか

poutと思ったものでした。

が、心も無常、確かにどひゃ~とガンガン苦悩している心は放っておいてもすぐに変化し

ませんが、すぐにそこまで辿り着くのでなく、このこころの小さな変化。ちょっとした心が、す

~と消えて変化して行く、その感覚。

小さな苦悩、小さな変化、ここならすぐにくっつく苦悩Bが生まれ難いと思います。

ほんの少しの苦悩をそのままにする、苦悩Aとして、苦悩A+Bに変化させないでおくことと

思います。

「ピュアに悩む」という意味は「苦悩A」を徹底して「苦悩A」のままにしておくことに他なりません

牛歩求道人から言いますと、でっかい苦悩Aをそのままにして悩むということは至難の業

です。

そうか、そのまま悩むのか、と「ウ~」悩みと対決する苦悩Bが生まれてしまうのです。

「ピュアに悩む」とは、フッとした小粒な苦悩Aが無常の鉄則で変化して行く様から身に着

けて行けばと思っている次第です。「悟ろう!」とはもう思って歩んで来たのですから、今は

「悟るには、どうしたら?」の悟ろうなどとどでかいことを考えずに、心の小さな変化、例え

ば、ゴルフ場でトイレに行って(小さい方)、後ろの個室から漂う不快な臭いのその苦痛、

苦悩をそのままにして用を足してみるとかです。

たとえそれがトイレの臭いの苦痛(苦悩)であっても

「どんなことがあっても、今の自分の状態(心の苦痛)以外に求めない」井上さん

| | トラックバック (0)

現在の自分の状態

今週は二日酔いになったり、お腹の風邪になったりで、体調はあまり良くなかったです。

井上さんとのメールのやり取りを書いてみます。

二日酔いでしたが、午後から、少しやっています。やると言っても「やる気」1つで、ことさら

に努力することはありません。やる気があれば、遅れたり(認識出来たり)、乗れたり(認

識出来なかったり)を自然に繰り返します。乗れてる、と思う感覚、認識している感

覚が、煩悩だとまだ感じませんが、ここを継続するには?と湧いても、すでに、そのままに

なっているので、以前のように、ああしよう、こうしたら、のように動くことはありません。

言葉には言い表せませんが、先週の水曜日から「ことさらに、あらためてはからわな

い」を始めてから、何か変わって来ました。自分に元々あった2つの状態、乗れている

と思っている、遅れていると思っている。この状態が繰り返されているだけです。

井上さん

「ことさらに、あらためて、はからわない」これはいいです。2つの状態が繰

り返し出てきても、その出てきた状態にしておく事です。つまり心の動き・脳み

その働きに「ただ」ゆだねるだけです。継続ですね。

乗れている(認識出来ている)、遅れている(認識出来ない)。この2つの状態を経験してい

くと、乗れていると思っている状態で、認識しているが、認識していないような状態の継続

を感じます。隣で鳴っている音楽の音は聞こえますが、音は次々前へ進んでいますので、

同時進行です。前にある庭の草は認めますが、草は変化しないので、認めたと思った瞬

間にはこちらの意識は前に進んでいますので、認めて認めてない、そんな感じます。

湧いて来る煩悩も感じますが、以前は、湧いて来る煩悩に、こんな心が、こんな心を

と、湧いて来る煩悩を問題にいてましたが、この、認めて認めず、のような、時の最前線

とも言える方が、重要のように感じます。と言いますか、ここを維持しよう、ど

うしたらあの状態を継続出来るか?と考え、井上さんが言われていた、現在の自分の

状態以外求めない。はここの継続と思われます。

認めて、認めず、と言う状態は、頭の風通しの良い時です。どうしたら?が出ても、掴む

間もなく消えて行きます。信心は掴めません。道を求めてない人は掴みっぱなしで、掴ま

ない状態を知りません。煩悩では理解不可能な信心、は、煩悩を掴まない、掴めない、頭

の風通しの良い、認めて、認めず、の継続にあると思ういます。

しかし、継続しようと思っても継続出来ない。少し継続出来たから、あの感覚

を!と過去の体験を掴んでしまう。

根本には継続したいと思っているので、継続するにはどうしたら?と

ああか、そうか、と次々湧いてくる。だから、出来るだけ、継続し

たいと言う心を頭から排除して(掴まないで)、放って置けば、自然に風通しの良い状

態に入る。

そこで、ここを継続だ!とやると、今の状態以外に求めない、から外れま

すので、頭の風通しの良い時は、良い時。頭が閉鎖状態の時(一般人と同じ)はその時、

と任せていた方が、結局、風通しの良い状態を自然に維持しやすいし、風通しの良い

状態そのもの(認めて、認めず)の理解も深まるとやっています。

(思い浮かぶことを書いていますので、少しまとまりのない文章になっております)

井上さん

認識を起こす、思いが出る以前の様子を「信心・悟り・真理」といいます。

「信心・悟り・真理」はいつも自分が認識する、思いがでる以前に事実としてあ

るのです。ですから、「信心・悟り・真理」は考えてわかるものではありません

し、覚えてわかるものでもありません。もうすでに、我々には「信心・悟り・真

理」は認識を起こす以前の様子として必ずあるのです。それが、「現在の自分の

状態」なのです。いつでも、「信心・悟り・真理」というのは、事実としてある

のです。ですので、「現在の自分の状態」だけです。「現在の自分の状態」のみ

です。「信心・悟り・真理」をわかろうと思った、その直前が真理ですので、だ

れもつかめません。つかもうと思ったときは、もう遅いのです。

ここで私は一つの勘違いをしていたことに気付きました。

これまでも「今の自分の状態以外に求めない」にも書いてますが、今の自分の状態と言う

のを、自分の思い(煩悩)と勘違いしておりました。

今の湧いている煩悩以外の状態を求めない、と。

それ以外に「もっと継続出来たら」とやっていたのがダメなのだと思ってました。

この前から言われていた「現在の自分の状態」が信心なのですが、その時の心、ス

ケベな心、不安な心、その自分の心の状態以外を求めないと理解していました。その

時の心のままと。頭の風通しの良い状態を継続するには?と未来のことを求めて、そ

うなろうとするから継続出来ないのだと。今の煩悩のままでいるのが、現在の自分の

状態 なんだと。しかし、この井上さんの返信では、今の自分の状態 とは、もうすで

に、今の自分の~と思った時は、もう過ぎている、自分では認識出来ない、自分の状

態 とのことです。今の煩悩のまま、何も求めない、のと、今の自分状態 と言う、掴

もうと思っても掴めない、今と思った時は、すでに過去。掴めない物を求めるから、

掴んで掴まず。分かって、分からず。竿先なお一寸 です。ちと今までの理解は違って

ました。現在の自分の状態 は、今感じているスケベ心ではなく、スケベ心を感じる、

感じて感じない、もう一寸先のことです。求めたら、現在の自分の状態 でなくなる、

のではなく、現在の自分の状態は、秒針の早い今として次々と前へ進んでいますので、そ

こを求めることです。ならば、頭の風通しの良い状態を継続し、思いの湧く寸前の、自分で

出来だけ、可能な時間の先を維持することです。しかし、今日最初のメールの、働きにゆ

だねるはまだ分かりません。働きのままで一般人では、いつまでたっても 現在の自分の

状態には達しません。

メールここまで。

最後の文章にあります「ゆだねる」。このページの最初の井上さんからの返信に出て来ま

す。実は「あらためて、ことさらに」でこのことに正解を書いていたのですが、煩悩でこねく

り回そうとして、また袋小路になってました。正に反面教師です。

井上さん

働きにゆだねるとは、そのまま・あるがままという事です。ゆだねるとか、そ

のままと、思いこむ事が問題なのです。違ってくるもととなります。ですから、

そのまま・あるがまま・思いの働きにゆだねるという事を、状態を、忘れてしま

わなければ本来の「現在の自分の状態」にはなれないという事です。一般の人達

と、心得た人との違いは、その場その場、その時その時の縁に任せてそれに添っ

ていく、そのような満足、不満足の全くない、ただ縁に任せていく生活が出来る

か出来ないかの違いがあります。以上の事は頭の風通しよくは心得た。秒針のよ

うに早い今の真上にのる事は心得たという上の事です。

この前半に書いてあることは、まさに自分が「あらためて、ことさらに」で書いていたことで

した。

鬱陶しい亭主さん「心を弄り回すのをやめるのがキモです。心は沸くように沸かせておく」

以前にも書きましたが、前半と後半はセットなのです。弄り回すのをやめ、そして心を沸く

ように沸せておく、のでなく、弄り回すのをやめれば、勝手に沸すように湧いている、と言う

ことです。まさに「あらためて、ことさらに、はからわない」です。弄り回す以前の状態です。

鬱陶しい亭主さんの「目的地」にこれと似たことが書いてあります。私は、まだここまでは

達していませんが。

さて、ここで、井上さんからのメールの後半部分に意見を言ってしまいました。

登った先のことを言われても仕方ないと。

禅に「悟ったらどうなるのですか?」「悟ってから聞け!」ってのがあったと思いますが、

今は悟った状態はあまり興味ないです。やりながらも不安一杯(これでいいのか、ダメなん

じゃないのか・・・)ですから、妙好人(浄土真宗の宗教体験を持った信者)の詩読んでも仕

方ないって感じです。

ありがたいな
こんな如来さんは
どこへでも
わたしが行くところに
付いて来なさる
ありがたいな
    (浅原才一)

こんな感じです。

以上の事は頭の風通しよくは心得た。秒針のよ

うに早い今の真上にのる事は心得たという上の事です(井上さん)

▲それはそうなんですが、一般人と心得た人のことを書かれても、求道者、ある程度風通

しを体験出来る、「そのままとは??」と浮かんでも、その「??」をそのまま線香の煙とし

てしまうことは出来る求道者はどうすればいいのかと思ってしまいます。初めての山に昇

るのに、地上の人は、頂上から見た景色が、まさかこんなに綺麗とは思ってないだろうな。

それは登った者には分かります。と言われても、登山の途中登っているものは、じゃ今の

はどうすればいいの?と迷います。登れば綺麗な景色が見える、今は見え隠れする景

色を見落とさないようにそのまま登れ!と言ってもらわないと迷います。

認識でき、自動的にそのまま、線香の煙のように消えて、切って、切って行くことです。

のような、現在の私にへのアドバイスが欲しいです。心得た時のことばかり言われて

も、ある意味現在の私には「そう言うもんかな」でしかないです。

井上さん

そうですね。その通りです。「今は見え隠れする景色を見落とさないようにそ

のまま登れ!」ですね。アッという間に1000回も変化すると言われています。

その変化の流れに乗って流れて、縁に任せていく。これですね。

「今は風通しの良い状態を維持して、思いが湧い

ても、湧く寸前から湧いたことが認識でき、自動的にそのまま、線香の煙のよう

に消えて、切って、切って行くことです。」消して消して、切って切って行く。

これでいいです。常に新しく、常に新鮮に、時の流れに!!です。

迷えば迷いをそのままにしておけば正解なんでしょうが、まだまだガラスのような求道者で

す。それで行け!、とか、これでいい!とか言ってもらいたいものなんです。

失礼な書き方もしておりますが、10年間の親交の上でのこととしてお許し下さい。

その点、一人で黙々と道を進まれた鬱陶しい亭主さんは素晴らしいと思います。

またもや真偽不明ですが、やればやるほど、よく分からんになって来た感じです。

| | トラックバック (0)

継続しないと分かりません

ここ数日は不思議な感覚で過ごしています。

これが正しいのかは分かりませんので、そう思って読んで下さい。

やる気はあるのに、やることがない。

こんな感じです。確認出来る状態を継続できるわけではないのですが、継続しようと思いません。

正確には、思わないことはないのですが、継続しようと努力しようとしないと言うことです。

認識出来ている時と出来ない時が交互にありますが、そこをなるように任せている感じです。

何かをやっている実感がないので、中途半端な気持ちで、この道に入る前と紙一重のようです。

もう少し継続してみます。

| | トラックバック (0)

平生のきざみ

連休に高知まで出掛けて更新が遅くなりました。

前回の記事を書いてから調子は良かったり、悪かったりでした。

前日出来ていたことが、今日出来ない。ほんと、これの繰り返しです。

そんな自分にため息をつきながら、連休が終わり、やさしい・しんらん予備校井上さんのホームをふと見たところ、

記事の一番最初の「今の身心の状態(本当のこと)」を生きて下さい」が目に留まり、なぜかすんなりと心に入りま

した。

最近、このブログでも同じような意味のことを書いて来てましたが、おそらく100回くらい読んでいる井上さんのペー

ジですが、ここをやろうと思ったことは初めてでした。

と言うことは、今までは意味を分からずに読んでいたことになります。

確かに「今を生きよ!」とは求道していない人でも使います。

過去にクヨクヨするな、明日を心配するな、今を精一杯生きることだ。

こんな感じでです。

しかし、井上さんの「今」は「平生業生とはよく聞きますが「きざみ」です。刻みです。平生の、日常の刻みです。一

刻一刻、一秒一秒、一瞬一瞬です」と書かれています。

今、今、今、・・・・・・の刻みです。

昨日、井上さんに送りましたメールです。

今日、昼に井上さんのホーム「聞法の方法」最初の「今の身心の状態(本当のこと)」を生きて下さい」がなぜか

にすんなり入って来て、やっとここに絞ってやって行こうという気になりました。

なん十回、いや、100回以上読んでいますが、これほど「ここに書いてあることをやろう」と思ったこと

はありませんでした。ここ最近のやり取りで同じような話があったこともありますが「見る」「認識する」では「今の身

心の状態(本当のこと)」を生きて下さい」となりません。見ようと思っている自分がいれば、それが事実ですから、

見ようと思っている心の状態を維持(そのまま)にしている時、すでに「見よう」と言う心はありません。前へ、前へ

進んでいますから、その「見よう」という思いもすでに過去のこととなって行きます。したがって、「見よう」がなけれ

ば「見ている」もないことになります。

「今の身心の状態(本当のこと)」を生きて下さい」を実行していると自動的に色々な煩悩が湧いては消えて行きま

すが、その煩悩を認識する間もなく前へ進んでいます。煩悩を見ていることすら煩悩、とは1月2日にお話ししまし

が、その見ていることすら、前へ、前へ、で、すでにないに近い状態です。

今日来ました井上さんからの返信です。

この調子です。最近わたしが、よく言う認識・意識が湧く、出るだけの状態、状態だけなのです。

つまり、あるがまま(何が湧いてきても)でいいのです。そのままでいいのです。

今朝は、昨日の状態、状態と言いますか、平生の、日常の刻みの状態にすんなりと入れました。

日々変化があるように進歩していけばブログを書くのも楽しいのですが、ウンウンと唸ってばかりですと、

ブログ更新も間隔が空いてしまいます。が、私の拙い今の経験を読んで下さる方がおられると思うと、頑張らね

ば、と言う思いが湧いて来ます。

模範解答のようなブログでなく、本当に済まなく感じています。

鬱陶しい亭主さんも井上さんも、「まず6ヶ月やってみましょう」と言われてます。

何とか6ヶ月で(3月一杯)で何らかを感じたいと思っています。

| | トラックバック (0)

その他のカテゴリー

心と体