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何もしない

「今のカレー」のコメント数が多くなりましたので、記事を変えてみました。


「何もしない」と以前にも思ったことがありました。

思えば25年、真実を探し、悟り、妙好人の存在を知り、真実はあった!

どうすれば自分もそのような境涯に・・・と思って、起きても、飲んでるときも、

出来てる、出来てない、これでいい、こんなんじゃ、とやって来ました。

以前、不識さんから頂いたコメントに

◎「自分を取り扱うこと」とは、
道元禅師の言葉を借りますと、「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて 自己を修証するは悟りなり」です。


上記、「考えを先に立てない」とは、
香樹院徳龍の言葉を借りますと、
香樹院「そのままだ」
聞法者「そのままですね」
香樹院「そうじゃない」です。

とあります。

これを当てはめますと
「何もしないままだ」
「何もしないですね」
「そうじゃない」

となります。

以前の私は、「何もしないですね」と納得してしまうことが、

「そうじゃない」なんだよな。と考えてましたが、「納得することが、悪いんだよな」も

穴のむじな、と言うことです。

「何もしないですね」と自分を自分で「自分を取り扱う」ことをしています。
「自分で取り扱うから悪いんだよな」も同じと言うことです。


じゃ、何もしない、はダメなのか、と言いますと。

「何かをしようとする思いが湧いたら、そのまま手付けず」と思います。

「何もしないとは?」「出来てないぞ」「ハッキリしないな」・・・

と湧いてきますが、それは、それとして、生活をすることです。

「前向き」と言いましても、あらためて「前を向く」こともする必要はありません

「~しよう」の裏には「~なりたい」があります。

自分では何にも分からずに生活をしていることが、前向きだと思います。

「そうは言っても、どうやればいいか・・」と湧けば、そのままです。

書いてる私も、分かりません。偉そうに書いてますが、生活をしようとしているだけです。

それが自動的に、分からずに「何もしない」と思います。

ではこうやって、あれこれ考えながら書いている時は・・・

いろいろと湧いて来ますから、セルフイメージに関連する思いは

そのまま、スルーして、と言うことでしょうか。

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コメント

>そうは言っても、どうやればいいか・・

活動していることそのものになりきって(ありきって)「これが自分」を忘れることです。


>あれこれ考えながら書いている時は・・・いろいろと湧いて来ますから、セルフイメージに関連する思いはそのまま、スルーして、と言うことでしょうか。

ただいまさんは、十分理の上でわかってらっしゃるので、このぐらいにしましょう。考えるほど、「自分」モニターに向かい、事実生活から離れます。

合掌低頭、不識

投稿: 不識 | 2016年10月30日 (日) 22時41分

不識さん

「何もしない」と1週間でしたが、2日前不安が湧いた時、その不安を感じながら

「不安が出てきたぞ、そのまま」と湧いて出ました。そして「前を意識していないからじゃ」となり

「前を意識することは、意識を、内、外に向けることだから、何もしない範疇だ」と、

「意識を前に向ける」と動いて行きました。

今日になって、意識を向けるもなく、この1週間のように生活するだけと思いました。

宇佐療法のブログ「「感情」を相手にしない」 http://miroku18.blog.fc2.com/blog-entry-90.html

に、わやさんのコメント
「物事に集中していた時。テレビを見て笑った時。仕事生活の工夫をしている時。この時、私は辛い楽しい心が晴れたという見解が無しに、ただそのようにそのことをしている時があります。」
とあります。

「我に帰る」と言う言葉がありますが、この「我に帰る」の時に「ああだ、こうだ、◎だ×だ」とやってしまいます。

テレビに没頭していた時、パソコンで調べ物をしていた時、誰かと言い合っている時、など、無我夢中で、「我に帰った後に」「あ、」と思います。

以前の私でしたら「あ、出来ていなかった」となり「我に帰った状態の維持をしないと」となっていました。

わやさん「このことを不織さんは内向き作業が無い実生活だと言われているんだなと思っています。しかし、集中とは、物事に集中していたと後から分かったことであって、自分から集中しようと思っても出来ません。」

そうなのです。「我に帰った」と思う時は「ああだ、こうだ、と考えられて」、と思いますが、無我夢中の状態にはなれません。いつの間にかなって、連れ戻されるように「我に帰ります」

わやさん「例えば生活に忙しくなってきて、生活のことで頭が一杯になって気付いたら知らぬ間に神経症の苦悩を忘れていたということが治癒なんでしょう。それがそのようになることはありますが、忙しい時は続かず暇になると苦悩しています。 」

ふっと「無我夢中」になり、ふっと「我に帰る」この繰り返しです。

が、我に帰った時に「不安が湧いたぞ、これでいいのか・・・」とやってしまったのです


>活動していることそのものになりきって(ありきって)「これが自分」を忘れることです。


わやさん「>「神経症の苦悩の私」が立ち消えていたのです。 もともと、なかったのです。 ですから、もう、「内向き」の熱心な努力は功なしです。

もともとなかったのだと思えません。「私」をただ単に忘れていただけで、「私」はないとは思えません。だから内向きの努力は虚構の私に努力しても無駄だと言われても、そもそも「私」を虚構だと思っていないのにそれを言われましてもうなづけません。」

活動しているそのまの、と言うのが「無我夢中」として、確かに「私」はないのですが「自忘」とは違うと思います。

この「わやさん」と同じ心境ですが、「我に帰った(自分をも落ち運べる)」時に、「自分を持ち運ばない(不識さん)」と言うことでしょう。

投稿: ただいま | 2016年11月 1日 (火) 14時03分

不識さん

「今のカレー」でレッドさんに返信した後です。http://tadaima76.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-790e.html#comment-139073213

この記事の不識さんへの返信から

>活動しているそのもの、と言うのが「無我夢中」として、確かに「私」はないのですが「自忘」とは違うと思います。
この「わやさん」と同じ心境ですが、「我に帰った(自分をも落ち運べる)」時に、「自分を持ち運ばない(不識さん)」と言うことでしょう。


これ、全てが「持ち運び」でした。

「外向き」とは「外のことが目標」であり、

朝食を食べる。歯を磨く。電車に乗って会社に行く。

です。

その途中に、綺麗な景色だな~と思うことがあったり、隣の学生うるさいな~、と思うことがあったりしたら
それはそれです。
「うるさいな~」と怒っている自分は関係なしです。

電車に乗って会社に着けば、それでいいわけです。

至ってシンプルです。

>活動しているそのもの、と言うのが「無我夢中」として、確かに「私」はないのですが「自忘」とは違うと思います。
この「わやさん」と同じ心境ですが、「我に帰った(自分をも落ち運べる)」時に、「自分を持ち運ばない(不識さん)」と言うことでしょう。


これは、至って複雑です。

ただいま

投稿: ただいま | 2016年11月 3日 (木) 14時25分

シンプルであろうと複雑であろうと関係ないですね。

電車で会社につけるかどうかですね。

繰り返しますが、へ理屈こねさせてもらうのは、自分説明自分作業していただくためではありません。
観念生活でなく事実生活していただくためです。

事実というのは、観念化された「事実」ではありません。ドンと音がしたら、良い音か悪い音かが出る前の、ドンの状態です。
ちなみに、そのあと、これは気持ちの悪い音だという思いが出てもかまいません。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識

投稿: 不識 | 2016年11月 7日 (月) 00時31分

不識さん

以前、不識さんから頂いたことば

>釈尊が、花をつまんで、ハラリと落としてみせたのも、そういうことです。何も解釈を挟まない直のことです。

もう3年半も前になります・・・

「花をつまんで、ハラリと落としてみせた」

花はおちていき、地面にあたってとまった

この徹底です。

ただいま

投稿: ただいま | 2016年11月10日 (木) 13時40分

ただいま様

ご承知のように、徹底しますという以前に徹底されているんですね。
単に「無言」で(「分かった」から離れて)乗っていけばよい(「自分」を用いない・「自分」で「自分」を動かさない)だけですね。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識

投稿: 不識 | 2016年11月13日 (日) 22時39分

不識さん

「浜松で禅修業」さんから http://ameblo.jp/hamamatsu-zen/entry-12220698156.html

Q.
五感のその時の様子だけで置いておくという教えは理解では分かるんですが、実際には、何かあった時に思考が出てきて、思考なのか事実なのか区別がつかないんです。何かあった時に出てきたものは思考…。

A.
(さえぎって)全部、事実なんですよ。

どっかに(事実と思考を)分ける人がいるわけ。分ける人が中心にいる、そっちのほうが問題なんですよ。「浮かんだことは考え方なのか?」って事実と考え方とを分けて見る。ものを二つ置いといて分けて見るわけでしょう。

起きることはみんなその時のことだけだから。思えるっていうことだってその時そういうことがひょいっと思いになってるだけだから。

だから無条件なんですよ。どんなことがどうあろうとも、って、無条件ですよ。

ことごとくこの自分自身の今の様子ですよって言ってるんです。

Q.
いくつもいくつも思考を重ねちゃったりしても?

A.
「重ねる」って言うけど、本当に重ねているかって見てほしいの。

「重ねた」と思っているけど、前の思いはないですよ。今思えてることだけです。「重ねてる」って言いながらも今の思いだけじゃないですか。

「思考がずーっとつながっている」とかっていうように見るのは思い込みですよね。見方でしょう。

事実は、今、動いている思いだけでしょう。

そしたら「こんなに重なってる」とか「いつまでもしつこくこんなに出てくるのか」って、そういう扱いをしなくてもいいようになるでしょう。

条件なし。ことごとく全部、どんなことが思えようとどうしようと、全部このもののその時の活動です。

それが分かってもらえたら、そうやってすぐに分けて見るようなこと…いわゆる分別心っていうんだよね、取り上げてはそうやって観察することが始まるじゃないですか…その違いを知ってもらえたらいいですよ。

Q.
そうなんですね。

ここから ただいま

まとめてみれば、すべて良いと言うことですね。

以前、○×をつけないと不識さんから言われましたが、すべて今の様子であれば、すべてそのまま、すべて○となります。

>自分」を用いない・「自分」で「自分」を動かさない)だけですね

と書かれると、すぐに「動かさないとは?」「でも、この計らいは湧いて、湧いてくるが」などとやりそうになりますが、

もし、これでいいのか?と湧けば、それそのものは、今、湧いたのだから、それでいいのです。

今の様子はすべて正しい(○×でなくすべて正しい)だから、自分を用いる必要がない、ことです。

それが「乗っていけばよい」です。

ただいま

投稿: ただいま | 2016年11月19日 (土) 06時28分

>(事実と思考を)分ける人がいるわけ。分ける人が中心にいる、そっちのほうが問題なんです

分ける人・自分が中心にいることが問題といってるのですね。

事実と思考は分かれていながら一つ、一つでいながら分かれています。
しかしながら、
それを知るには、まず、ナマの事実と思考・観念(教え・分かったこと)は別ものであると知らねばなりません。


>以前、○×をつけないと言われましたが、すべて今の様子であれば、すべてそのまま、すべて○となります。

今の様子とは「今の様子」と分らない状態です。
そのままとは、○×がつく前の状態、「そのまま」と分らない状態です。
すべて○なら、○はありませんね。

>>「自分」を用いない・「自分」で「自分」を動かさない)だけですね

「自分の見解」をさしはさむ以前の動きと受け取ったらよいかもしれんです。
あまり、考えすぎずに、没入して行ったらよいでしょうね。

>今、湧いたのだから、それでいいのです。

「それでいい」という「自分」が必要ないのです。

>今の様子はすべて正しい(○×でなくすべて正しい)だから

今の様子は、「今の様子はすべて正しい(○×でなくすべて正しい)」という認識以前を仮にそう呼んでいるのです。
そういう実体はありません。

「今の様子」も考えずに、するだけです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識

それが「乗っていけばよい」です。

投稿: 不識 | 2016年11月20日 (日) 00時18分

『それが「乗っていけばよい」です。』は、誤入力です。すみません。不識

投稿: 不識 | 2016年11月20日 (日) 00時20分

不識さん

どうやったら、こうやったら、これか!、そうか!が、「同じ穴のむじな」と言うわけです。

私は今まで、この自分の頭を使える時、何かの思いにはまり、その後、我に返った時、この時を維持しないと!とやって来てました。

だから、思いにはまって、認識出来てない時はダメだと。

どうやったら、我の頭が使えて認識出来る状態を維持出来るのかと、こればっかりで、方法論でした。

しかし、1週間前から、どんな状態でもそれでいいのだと、

頭が使える時も、これで、あれで、と湧いては来ますが、また、ついつかんでしまうこともありましたが、とにかく、方法論を相手にせずに生活をしました。

昨日からは、この方法論の思いも、涌くのが減ってきたようです。

朝から晩まで方法論で生きていたのと、違う生活です。

やらなければいけないことをやり、やりたいことをやり、やりたくないことはせずに、思うままの生活です。

ですから、徹底します!はありません。することは、やりたいようにやるだけです。

ただいま

投稿: ただいま | 2016年11月27日 (日) 10時47分

ただいまさん、よろしければ参照してください。

>朝から晩まで方法論で生きていたのと、違う生活です。

仏道修行は、方法と結果が一如です。

>ですから、徹底します!はありません。

「徹底します!はありません」「徹底します!」と言っても同じこと。
いちいち、文字起こししてできた概念風呂に長く浸らないことをおすすめします。
無言で、認識以前の事実に浴することをおすすめします。
(考えを重ねた末)話をしている最中に、(準備なくいきなり)救急車の音が聞こえる。それについて、私はこう思うという我見を足さない。音が聞こえたら聞こえっぱなし。好きだ嫌いだという思いが出てもそれに我見を足さない思いっぱなし。事実浴です。

合掌低頭、不識


投稿: 不識 | 2016年12月11日 (日) 23時11分

不識さん
〉(考えを重ねた末)話をしている最中に、(準備なくいきなり)救急車の音が聞こえる。それについて、私はこう思うという我見を足さない。音が聞こえたら聞こえっぱなし。好きだ嫌いだという思いが出てもそれに我見を足さない思いっぱなし。事実浴です。

これは、分かります。すんなり、分かるのですが、我見を足さない、も分かるのですが、日々生活しているときには、周囲の状況、涌いてくる思い…あのやり方が良かったかな…と湧くと、ま、あの時はあれで…とあれこれとやってしまいます。

前から言われているように、自分対自分、自分の心以外は良い、であれば、あ~まだこんな心が…と涌けば、そのまま我見を足さない。で良いと思います。
座禅をする時なら、不識さんの書かれたことをやることと思います。

自分の説明はしない、と言われてしまいますが、生活中は、湧いた思い(自分対自分でない)に、くるくるしてて、ふと我に返って、「身構えている自分」から、こんなことで….と、出たら、そこは、その自分そのまま、でたまま我見を足さない、と…理解しております。

ただいま

投稿: ただいま | 2016年12月21日 (水) 12時37分

わかりました。
合掌低頭、不識

投稿: 不識 | 2016年12月26日 (月) 00時07分

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