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2013年3月

反省なし、やりたい放題

特に何をするでもなく生活しております。

「信心、悟り」については、まったくどうなっているのか分かりません。

もしかして、「真実が知りたい」と何をどうしようかとやっていて、

結局、何も出来ずにダラダラと時の浪費だけしてしまった時と

同じなのではないか?

「何もしない」と言いながら、まったく進歩などしていないのではないか?

などと湧いて来ます。

ふと、そのような心に動いてしまいそうになります。

***rurumikさんのブログより 

>不快な感情をそのままにする...ことが、できない、んだろうなあ...私は。

だからよけい疲れた。不安、恐怖、怒り... などの。

三聖さん

「不快な感情をそのままにすることが、できない、んだろうなあ」というそのままでしょう?

「あるまま」のポイントは、目の前に、かかりっきり、こっち(自分の方)ほったらかしです。

上の例は、自分に対して自分が、かまってるでしょう。「疲れた」のは自分対自分のせいで

す。

***

ここがすべてではないかと思っています。

どんな心が湧いても、その湧いた心と

「こんな場合どうなのだろうか?」

「こんど井上さんに聞いてみよう」

「いや、三聖さんの方がいいかな」

「聞かなくてもいいんじゃないの、自分で考えれば」

「と言っても、ここのところに疑問があると、進んで行かないみたいだし」

・・・・・・

と自分の中で自分とやり取りすることが、あまり良くありません(と感じています)。

自分に「こんな心で大丈夫か?」「煩悩まみれ、反省なし、こんなやりたい放題で

大丈夫か?」と湧いても、やり取りなしです。

が、不思議と、このようなネガティブな心が湧くと、認識出来たとたんに

自動的に(そうしようと思わなくても)放っておける、おけるもないまま放られて

しまうことが多くなりました。

やりたい放題の毎日、反省なしの毎日。

を過ごしておりますと、その「やりたい放題」=そのまま今に乗っている

の感覚(三聖さん的には、そのまま前進)

が優勢になって、ネガティブな心が湧いても、その流れに自然に消えて行く

感じです。

が、自分がどうなっているのかは分かりません。

「弥陀まかせ」とは言いますが

なんで「不安」は湧いて来ます。

ついついそこで、自分とのやり取りもしてしまいます。

心の中は、もうめんどくさいことしないでいいんです。

それでも、用事してしまうことがあったら、気づいたら、

すぐ離れて目の前。そういうことです。」三聖さん

気付いたら、パソコンで好きなこと検索しまくる。

まったく、やってる自覚がない。

***rurumikさんのブログより

>坐禅の祗管打坐は、そのまま、あるがまま、の聞法と同じだな、と思った。時々、坐禅も

やってみようと思う。

そうです。

そうなんです。

「祗管」は、ただ、そのまま、「打坐」は行住坐臥生活のすべてです。

ただ、気をつけなければいけないことは、

自分を持ち運んで、「祗管打坐は、そのまま、あるがまま」という「小屋(考えの世界)」に

、自分を入れるようなことをしないことです。自分が自分に、そういう理論・マニュアルを用

いて、取り扱うことなさらないように。

難しい話になってしまいましたが、

そういう専門用語は、自分に用事することは不要なんだ~本やPC前だけでそこから離れ

たら、もうすっぱり、用語もろとも忘れ、自分以外の用事に取りかかる。

「祗管・そのまま」が示していることは、そういうことです。

御承知でしょう。

しかし多くの指導者や苦悩する人は、それに反して、さらに、心の用事に向かうんです。

ですから、多くの療法家が語ることは、心の内面の理論ばかりでしょう。

結果読者も心に注意が向いたまんまです。

繰り返しますが、「祗管・そのまま」が示していることは、外(目の前)に向くそれだけ。

***

「そうか、で、外に向くということは・・・??」・・・・・

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弥陀まかせ

何もすることがないと・・・・

何をしてもよいと・・・・

何を思ってもよいと・・・・

道を求める以前の自分と何が違うのか

信心を得ることについて

何もすることがない

何もしてはいけない

何も思わない

「信心が得たい」心

それ以外は今まで通りに生活

WBC見て大騒ぎ

今日は美味いもの食べるぞー

楽天でデジカメ買うのに数時間もパソコンやりっ放しー

隣のきれいな女性に意識取られ放しー

ふと、

座らんでいいのか?

ちと時間を取って、自分でも見つめたらどうや?

このまんまじゃ、あまりにも凡人だぞ

この世のものに意識ぶっ飛んで大丈夫か?

知識の本でも読むか?

ほら「不安」が出てきたぞ

また怒ってるぞ

「心に用事なし」

「自分のことは無言」

だから

パソコンに熱中して、スケベ画像数時間見る方が

よいしょ 、と座って、さてさて始めるか

と座るよりまし

「信心」と検索してネットで「これ!」

を探すよりまし

と言う事実

弥陀まかせ

まかせるもない弥陀まかせ

***

やさしい・しんらん予備校井上さん

心臓は思わんでも動いてます

動かせて!と弥陀にまかせてもいません

食べたものは消化されます

それと同じです

***

「はぁ〜」

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その後

頭の風通しが悪かろうと、良かろうと。 

寝ようと思っても寝れないとき。起きようと思って起きるのではないこと。 

これと同じように、頭の風通しの良い時に、風通しを悪くしようと思っても出来ません。 

また、頭の風通しが悪い時は、風通しが良くなって「あ、悪くなっていた」と気付きます。 

頭の風通しの悪いときは、睡眠中に夢を左右出来ないように 

なにも出来ません。そのまま・あるがままです。 

が、頭の風通しが良い時は「認識」していますので、「ああだ、こうだ」がでます。 

やはり、ここが問題です。 

動く自由があるようで、とかく我慢が出来ません。 

苦しい心が湧いて来ると、ついつい動いてしまうのです。 

三聖さんが「自分のことは無言」と宇佐先生の言葉を引用されていました。 

「苦しい心」と言葉に出すことも「無言」ではありません。 

常に前向きに。音、感触・・・ 

風通しを良くしていて、苦しい心が湧きますと、ついつい身構える自分がいます。 

生まれて学習して、この世を生きて。 

常に自分の心を左右させようとやって生きて来ました。 

「明日がある!」これも同じです。 

ついつい身構える。そこで少し風通しが悪くなるのです(井上さんに確認済) 

そこをグッと風通しを良くすれば、苦しい心は気にならない方向へ向かいます。 

三聖さん  

>不快な感情をそのままにする...ことが、できない、んだろうなあ...私は。だからよけい疲

 た。不安、恐怖、怒り... などの。

「不快な感情をそのままにすることが、できない、んだろうなあ」というそのままでしょう?
 

「あるまま」のポイントは、目の前に、かかりっきり、こっち(自分の方)ほったらかしです。 

上の例は、自分に対して自分が、かまってるでしょう。「疲れた」のは自分対自分のせいで 

す。」  

これが、三聖さんの言われる「前へ」の状態と思います。 

風通しの悪い時は、すでになにも出来ないのだから、すでにあるがまま。 

風通しが良い状態の時に思いっきり全開にすることです。 

三聖さん(同じページ) 

「意識自体が意識自体である時に、意識自体が意識自体を知ることはできない。 

意識自体が意識自体を知ることが出来ない時、そこには意識自体はない。(井上先生の言

葉)」 

この状態は、自己観察しないほったらかし 

(=意識自体が意識自体である=心が見る方と見られる方に二つに分かれていない) 

の時、心意識は流れているんだけど、観察されてないから、 

(心意識のはたらきは作用してあるんですが)、それを認識できなかったら・ 

しなかったら「ない」んです。 

「ある・ない」というのは考え・認識の中だけのことなんです。 

認識を起こす以前の様子を「信心・真理」=「今」です。 

「今」は認識して知ることができない 

んです。認識して知ることができるためには、距離が必要です。 

この瞬間はぴったりひとつです。分かれていないから、わからないという理屈です。 

今と認識した時はすでに、過ぎて距離ができて分かれた状態で知ることができるわけで

す。

それで、何言いたいかというと、私たちは、そういう認識された、
 

○☓以前の、そういう良し悪しのついてない、評価以前、そういうところに、いつでも、 

生きているんだけれど、見たもの聞いたものを認識してそこに言葉でくくる。 

その言葉・ラベルを実物と勘違いして、実物より先にその言葉・ラベルだけを見るから、 

振り回されるんです。

 

*** 

「自分がダメだ、何も出来ていない。こんなんじゃ真理は分からないぞ」と思っていた 

ダメな状態が、実は真理でした。 

自分が、ここの継続だ!とやっていた状態は「認識すること」が出来ます。 

だから、自分の力が発揮されて、何か良い状態のように勘違いをしていたのです。 

自分の心を感じて「こんな心がな〜」とやっている時は、そうでしょう。 

今までダメな状態だと思った「風通しの悪い状態」があるがまま・そのままであることは 

分かりましたが、かと言って「どう転んでも良い」とはなりません。 

頭の風通しを全開に、前向きに進む(進めるときは・・・風通しの良い、認識している時は) 

と言うことまでしか分かりません。 

rurumikさんのブログにある、rurumikさんと三聖さんのやり取りの記事を読まれることを 

お薦めします。 

多くの人の神経症を禅的森田療法にて治し、浄土真宗で言う「ご信心」の状態に 

導いた宇佐先生の言葉が、三聖さんから分かりやすく、何度も解説してあります。 

また、これは、やさしい・しんらん予備校井上さんの言葉と全く同じです。

 

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