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2012年12月

自然(じねん)

前回の記事で

「宇佐先生も三聖さんも「外のこと、身の回りのことをする」と言われます。

ここが少し分かりにくかったのですが、

神経症の方は、自分の観念で、日常生活もままならない状況になってしまうことが

あるようです。

鍵を掛けたかと何度も確認に家へ帰ってしまって、遅刻してしまう。

本を読もうと思っても、家のホコリが気になって掃除機ばかりかけてしまう。

これらはあくまでも私の想像ですが。

となると、日常のことが出来なくなる。

そんな時、その「鍵を掛けたかな」の心をそのまま耐えて「駅への道を歩いていく」

この耐えているところを、

宇佐先生は「とりあえずのお仕事を始めていらっしゃれば、もうそこからは全治がその瞬間

から始まるよりほかなくて、もう決定的な脱線はありません」

と書かれています。」

と書いて、「外のこと、身の回りのことをする」ことをすることは神経症の人のための

言葉と書いておりましたが、

私にも同様でした。

仕事をする時は仕事をしていれば、その世界は開かれています。

心は自動的に切れて行きます。

ただ、まだ徹底は出来ません。

何も、神経症の人だけでなく、誰でも「今、やらなければいけないことをする」ただ

これだけのことです。

それに徹するように努力(努力をしない努力)を続けて行けば

「どうにもならないような苦悩はそれに対して無為であれば、

つまり苦悩する心をそのままに放ったらかしにしておれば自然(じねん)のうちに

苦悩があってなきがことくになる」

宇佐晋一、木下勇作共著「あるがままの世界」の聴聞記より

あとは自然(じねん)に任せて徹底するだけです。

自然(じねん)・・・ 自然じねん)というは、自はおのずからという、行者のはからいにあら

ず。と言う意味です。 

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神経症と悟り

やさしい・しんらん予備校井上さんのところへお話を聴きに行かれている

rurumikさんの縁で、神経症の方のサイトなど見る機会が増え、

名前は知っていました「森田療法」に改めて接することがありました。

幾つかのサイトを訪ねただけですので、神経症のこととか、森田療法のこと

など間違ったことを書いてしまうかも知れませんが、お許し下さい。

この森田療法、私が知った時には、正直「神経症を治すのと、悟り、信心、覚醒、なんて

同じのわけないだろう」と思って深く興味も持たずに小馬鹿にしていました。

が、この森田療法のことを解説しておられる三聖さんのコメント、また、この森田療法

を正しく継承しておられる、三聖病院の宇佐先生の講話などを読んでおりますと、

今までの自分の考えが違っていたことを認めるようになりました。

私の理解する範囲では「神経症」とは、心配症で、とにかく部屋を綺麗にして

おかないといけない。

全てが不潔に見えて、電車の吊革も持てない。

家の鍵を掛けたか、ガスは切ったかが気になって、何度も確認に家へ帰ってしまう。

このような方(もっといろいろあるとは思いますが)の持つ悩みと考えています。

そして、この症状を治すには、治さなくてよい、のがその方法となります(森田療法)

私は「真実とは何か」が気になり、この道に入りました。

ある人の勧めで「内観」を当初しておりましたが、

「煩悩」と言うものは人を楽しませるために、人生の目的のためにある、んだと

思っていたが「煩悩」は自分を苦しまさせているのだな、と理解するように

なりました。

それから「煩悩」に苦しみました。

今まで、思っても見なかった、自分の楽しみ、が自分を、それが見えれば見えるほど

苦しませました。

そしてネットで井上さんと知り合い、今、指導して頂いています。

この「煩悩」も神経症の「観念(スイッチを切ったかが気になる)」も同じです。

両方とも「心」から湧き上るものなので。

ただ、一般の人は、「煩悩とは」との考えもなく、矛盾を感じずにお付き合い

されているだけです。

悟り、信心を求める場合、何かしら「今までしてきた、普通の生活ではない」

何か、を求める欲求が湧いていると思います。

それは、ひと様々で千差万別で、入口はいろいろあると思います。

また、進む先もいろいろでしょう。

しかし、その「欲求」を解決するために、何かしらに落ち着いてしまう、

教団であったり師匠であったり・・・・

と本当の解決にはなりません。

「何かを求める」という「煩悩」を「何か求めるものがあった」で解決すると

本当の解決にはなりません。

神経症の方は、たぶん、自分のこの観念が嫌なので、何とかしたいと思って

おられます。

この自己矛盾が、信心を求めるのと神経症を治したい、と思うことの一致点です。

で、神経症の方は、この心(観念)を何とかしようとカウンセリングを受けたり、

薬を飲んだりされます。

で、そこにある一つの治療法が森田療法と言うことになります。

宇佐先生の講話に

どの方法がいい方法か、どの考えが正しい考えかという自分についてのより確かなもの

をはっきりさせる努力が続いておりますと、治ることの実際は始まってきません。」

と言うのがあります。

「悟ろうと思わないと悟れないが(正確にはこのままで良かった)、

悟ろうと思っているうちは悟れない」

これは何度か書きましたが。

「神経症を治そうと思わないと治らなないが(正確には治す必要はない)

治そうと思っているうちは治らない」

となります。

「どうやったら悟れるか、信心は得られるか、安心(あんじん)出来るか」

ばかりを考えていては、

いつまで経っても安心は出来ませんよ。

と同じになります。

また宇佐先生は

心は自分の意思ではどうしようもない世界ですからそれら心の動きに対しては、知らん

顔、放ったらかしにすることが肝要なのです。」

やさしい・しんらん予備校井上さんは

この方法で、いいのかなあ?と思ったら、その思い、その思いがわいている

「今の状態」を維持するのです。

どんな事があっても、気持も、感覚も、「そのまま・あるがまま」にして下さい。

御(おん)まかせる事です。」

と書かれています。

同じことが書いてあります。

また宇佐先生は

明確な結論づけをやめていく方向へと、この療法をきっかけとしてどなたもがなさっていら

っしゃるのです。そうしますと、いかにも中ぶらりんでしり切れトンボで、わかったような、わ

からないような、というよりは、むしろ、<わからなさ>ということの方がよく当たっている世

界が広がってくる。 それが、実は灯火なのです。」

この世界が、この前から書いております「努力のないところ」です。

これは、今思えば、この道に入り「内観(これはある意味間違いだったが)」

をやりだした頃から、ずっと感じていた世界です。

が、そこに徹底してなかったために、ここまで長く掛かってしまったのです。

「じゃ、どうすれば」「もっとうまく」「もっと長く」・・・

ここをやっていてはダメなのでした。

このブログにも「長時間続きません」と何度も書いています。

なぜだったか。

それは、確かに少し前に書いた「感覚」の手助けを借りるのも一つの方法ですが、

徹底して「心は同じ」とすべてを、その世界(時の最前線)でそのままにして来なかった

ことから来ています。

宇佐先生

結論やまとめを持ち出すことで逆に暗やみになってしまうんですね。見当がつかなくなっ

てしまうのです。そういうことですから、治したくなくてもひとりでに治るようになっているの

であるということですね。」

「ああか、こうか」と考えるのではなく

とにかく「放っておく」ことに徹すれば、自然と信心の世界なのです。

と置き換わります。

考えてみれば神経症の人だけでなく、普通に生活している人、皆、「煩悩」と言う

病を抱えている。ただ気が付いているかいないかだけです。

私が、今やりながら思うのは「放っておく」と言われると「放っておくとは?」

とどうしてもなります。

また「放っておいているのかな?」となります。

どちらが出ても「放っている」世界で湧いているのであれば、「放っているの?」

と思っても放っているのです。理屈抜きです。

宇佐先生も三聖さんも「外のこと、身の周りのことをする」と言われます。

ここが少し分かりにくかったのですが、

神経症の方は、自分の観念で、日常生活もままならない状況になってしまうことが

あるようです。

鍵を掛けたかと何度も確認に家へ帰ってしまって、遅刻してしまう。

本を読もうと思っても、家のホコリが気になって掃除機ばかりかけてしまう。

これらはあくまでも私の想像ですが。

となると、日常のことが出来なくなる。

そんな時、その「鍵を掛けたかな」の心をそのまま耐えて「駅への道を歩いていく」

この耐えているところを、

宇佐先生は「とりあえずのお仕事を始めていらっしゃれば、もうそこからは全治がその瞬間

から始まるよりほかなくて、もう決定的な脱線はありません」

と書かれています。

悟り、信心、安心も同じことで

「わいてくるままにおまかせです」井上さん

とにかくここに徹することです。

とここのところ思うのは、すでに解決された方の言葉を気にしないことです。

井上さんのホームから

「意識自体が意識自体である時に、意識自体が意識自体を知ることはできない」

と書いてあると

「どうしても意識している自分がある」

そうか、この意識している自分をもっと意識してやるのか・・・

などと「方法」を考えてしまいます。

解決された方は解決された方。

今は、その後のことは置いておいて、が、もし気になれば気になったままに

そのままにする、そのままに出来るところを維持する。

ことです。


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考えてはダメだ

とにかく頭を捻くり回さない。

思考をするのは良いが、音が聞こえてる場でする。

やさしい・しんらん予備校 井上さんが「よし!」と思ってやった時、

当時は心の中で「今、今」と思い続ける努力でした。

秒針の真上に乗っていたいと努力したものです。

とおしゃってます。

心の中で「今、今」と思う、その思いが、音を聞くように認識出来ている場です。

私「ボ~ン~」と言う音を心の中で発します。

その「ボ~ン~」は時の流れの中で消えて行きます(音が聞こえている場)。

井上さん「当時は、「ボ~ン~」と言う音を心の中で発します。その「ボ~ン~」

は時の流れのなかで消えていきます。

これも「今、今」と私は心の中で思って、この継続だなあ、と思ったことです。

今、思えば、タンタンと時の流れに任せて(音が聞こえる場、ただいま注)いれば

よかった事です。

昔・当時は、手探りで聞法していました。

これより、ただいま

この道はすべて手探りです。こちらへ行こうか?あちらへ行こうか?

これで良いのか?これじゃダメなのか?

しかし、これをやっていてはダメなのです。

そんなことを考えながら宗教本を読んでいてはダメでした。

そんなことするなら、大好きな音楽を聞く。

聞いて、自分の中にあるその音に乗っている感覚を感じた方がマシでした。

心の中で「ボ~ン~」と音を出してみる。

「今、今」と思ってみる。

「こうすれば」の心でなく、その思いが存在している場を感じることです。

どうすれば?と思ったらら、降っている雨の雨音に耳を傾ける。

前回の記事にも書いてますが、目の前の物を見て、室内の違うものを見る。

また違うものを見て、何も見ないとする。

と見ようとする力が抜けて、ふと力が抜けたところに時の流れを感じます。

とにかく考えては進歩はありませんでした。

机をトントンとたたくのも良いでしょう。

「悟るために何かをしようとする力」を抜くことです。

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