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2012年11月

真理は努力する前にある

「真理は努力する前にある」

最近、やさしいしんらん予備校井上さんから頂いた言葉です。

「だから、肩の力を抜いて、今にあることを楽しんだらいいのです」

と続きます。

井上さんからご指導頂いている同行のrurumikuさんのブログの記事「生死を越える

のコメントに、三聖さんと言われる方が

「実際が思いより先にあるんですね」とコメントされています。

また三聖さんは、rurumikuさんのところへ来られている、

みなみさんのブログ「風の日は風の中を」の記事「治そうとしない」態度・その真意」の

コメントで

苦脳されている人のテーマ・注意は、「自分」や「心」の状態です。

それに対して、テーマ・注意は精神外界・目の前です。生活面の用事、風景、音、におい、

味、感触、(「外側」に向かった)思いです」と書かれています。

過去の私の記事にも何度も書いておりました。

今回のことは重要ですので、記事をすべて読み返し、関連する記事を書き出しました。

分かってるつもりで

昨夜は自分の動き、身体的感覚をそのまま・あるがままとしてみました。鬱陶しい亭主

さんが「自分を観察しろ」書かれています。ここのところは一昨日に読んだのですが「この

程度のことはもう分かってるわい!」なんて思ってました。でも、昨夜、身体的感覚を観察

することにしたところ、スパッと行くのです。「なんじゃこりゃ」分かってると思ってたことが、

思い、感情などの煩悩をそのまま・あるがままにしようと「しようと」してたようです。

ここのところを続けてみようと思います。

昨日の自分にまけない

鬱陶しい亭主さんが、体の感覚を感じるようにと言われたように、

った時の感覚頼みです。

目を開ければ見るまいと思っても見える、音も聞きたくなくても聞こえる。

何の努力もいりません。発散しようとする意識を集中する努力だけです。

ただ、音を聞く、秒針を見るでは単なる集中(にらめっこでは集中です)になりますから、聞

いている、見ているこちらの状態、自分の内なる体感を感じる(表現が難しいですが)のが

大切と思います。

@どうしてここまで書けて、それ以後があんな状態続けていたのかと思います。

尺取虫と真実

目の前のグラスを数秒見つめ、顔をそのままゆっくりと円を描くように動かして視線を一回

転させて、またグラスを数秒見ます。この時視線はどこにも焦点を当てません。

これを数回繰り返します。そして、そのまま前を見ると、不思議と感じが良いのです。

今日は発表会です

「力を抜いて」「構えない」状態。

「やろう!」と湧いたらそのまま自然に切れて行く状態の維持をやって(やらない、何もしな

のこと)おりますが〈中略〉

い・しんらん予備井上さんから頂きました文章を載せさせて頂きます。

「煩悩を観察する、感じる、見るとは、

ああ、これでよいとか、だめだとか、状態を自分で意識してしまうと、

依然として自分というものが残って、自分というものがあってそういう状態を見ていると言う

ことです。

経験した、体験した状態というものを認める自分があるからだめなのです。進歩がないの

です。

これでは無我、信心の真っ只中とは言えません。

いったん経験したもの、体験したものは、捨てて行かなければなりません。

常に新しく「今」をそのままにです。

出てくる思いは、出てくるだけの働きがあるだけです」

@ここの、自分というものがあって、とは、ああだ、こうだ、そうだ、だめだ、と

なんやかんやを続けていると言うことです。

自分というものがある?なんだそれ?じゃどうするの?

ではなく、その?をすべて置いといて、です。

現在の自分の状態

認識を起こす、思いが出る以前の様子を「信心・悟り・真理」といいます。

るのです。ですから、「信心・悟り・真理」は考えてわかるものではありません

し、覚えてわかるものでもありません。もうすでに、我々には「信心・悟り・真

理」は認識を起こす以前の様子として必ずあるのです。それが、「現在の自分の 

状態」なのです。いつでも、「信心・悟り・真理」というのは、事実としてある

のです。ですので、「現在の自分の状態」だけです。「現在の自分の状態」のみ

 です。「信心・悟り・真理」をわかろうと思った、その直前が真理ですので、だ 

れもつかめません。つかもうと思ったときは、もう遅いのです。

 @これは井上さんからの返信の内容ですが、本日のタイトル「真実は努力する前にある」 

のことを違う表現で述べられています。

わかろうと、つかもうと思ったらつかめない。

わかろうとする努力、つかもうとする努力、その努力の前です。 

力の抜き具合

すでに、乗っている。そのことに気付くだけです。

 乗ろうとする努力はいりません。 

乗ろうとする努力を止めるだけです。

やれるから やらない

やれるから、やろう!ではダメで、やれるから、やらない、です。

腰掛けている、その、何もしない、何もしていない時、そこにある感覚に乗るのです。

それからは、午後から仕事しだしても まあまあです。継続です」

井上さんからの返信

「>やろうとしてたら、片足が引っかかったままです。そこに気付きました。

>やれるから、やろう!ではダメで、やれるから、やらない、です。

「クモの巣」

井上さんからの返信です。

 

 ■自我を残して、ああだ、こうだ としていました。

 煩悩をそのままにする!も自我の中です。

 そうか、煩悩はそのままか!も自我の中です。

 その一歩前、ただ、の状態が、言葉で表すと、そのまま、となるだけです。

 これです。この継続です。

 自我も如来のしわざです。自我は湧くように如来がさせているのです。

 つまり、いつも如来のただ中なのです。

>腰掛けている、その、何もしない、何もしていない時、そこにある感覚に乗るのです。

 ■これです。
何も無いのが、本当は真実なのです。ここが重要なポイントです。継続ですね。

 @@@@

すべてと書きましたが、あまりに多くて1年分としました。

まさに反面教師のオンパレードです。

なぜ進歩しないのかのバーゲン販売です。

「真理は努力する前にある」

だから、努力で真理を手にすることは出来ません。

本を読んだり、座禅をしたり、悟るぞ~と必死になっても悟れません。

と言っても

でもな、こうかな、ああだな、しかしな・・・・・

がいくらでも出て来ます。

じゃ、どうするか? 

どうも出来ません。

そりゃ無理です。どうも出来ないって??

と蟻地獄に陥ってしまいます。

三聖さんが言われるように

「精神外界・目の前です。生活面の用事、風景、音、におい、

味、感触、(「外側」に向かった)思いです」何度か記事にも書いてましたが「感覚」です。

先日飛行機の乗っていまして、エンジン音の「ゴー」と言う音を聞いていました。

?これでいいのではないか?と思ってたところに井上さんから

「真理は努力する前にある」と頂きました。

そうか、そうだった。いつまで蟻地獄を続けていたのやら。

音を聞くのに努力はいりません。

しかし、音を聞こうとすると努力はしています。

迷ったら、まず音を聞きます。

 パソコンの「ウ~ン」と言う音でもいいです。 

単純に続いて行く音を聞きます。

 これが三聖さんの言われる「外界へ向かった思い」です。 

聞こうと努力していても「ああだ、これか・・・」よりよっぽどマシです。

 悟りたいとの下手な努力よりマシです。 

自分であれこれ考えるより、単純に音を聞いていた方がマシなのです。

 「真理は努力する前にある」 

音を聞くのはほんの少しの努力です。

 で、聞こうとする自分の努力をフッと抜きます。 

力を、努力を抜こうとすると、抜こうとする力が掛かりますから

 音を聞こうとしている自分の中の少しの努力を感じて、それを止めるのです。 

するとそこに「肩の力を抜いて、今にあることを楽しんだらいいのです」

 の「今」「時の流れ」が感じられます。 

今のところ、そこを感じても、それほど楽しくとは行きません。

 また、すぐに落っこちてしまいます。 

また、どうしたら?が湧いて来ます。

 が、どうしたら?の自分の思いより優れているのが音を聞くことですので、 

すぐに修正が出来ます。

 つい最近の井上さんからのメール 

「抜こうとしない。今すでにある感覚。(これは私が出したメールのことばです)

 これです。これです。継続ですね」 

ここを集中して継続です。

 

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