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2011年9月

力を抜く

前回は分かったようなことを書きました。

確かに、あれはあれで誤りはないと思いますが、それが続くか、とは別物であります。

認識がすでにあり、その中に色々な心が湧いています。」

前回書いた言葉です。

やさしい・しんらん予備校 井上さんの「自己の解決」の文章に

「・意識自体が意識自体である時に、意識自体が意識自体を知ることはできない。

・意識自体が意識自体を知ることが出来ない時、そこには意識自体はない。」

がありますが、この「意識」を「認識」として見ますと、

意味が通るような気がします。

「意識」とは漠然で、意識とは何か?と問われると、ハッキリと答えられない

感じですが、

「認識」とは何か?と問われますと、認識は、もうすで認識している。

夢を見ている時も、起きて目を開けた瞬間、

白昼夢を見て、周囲に無関心な時でも、頭の中の何かを認識しています。

「よし!やろう!」 と やってしまいます。

「あ~今日はダメだったな~ 寝るまでの時間頑張るか!」

と「頑張ってしまいます」で「うまく乗れないな~」となります。

と書いていても、ついついやってしまう時があります。

おぎゃ~と生まれた瞬間から、すでに認識は始まっています。

そのすでにの認識を「やろう!」とするとうまく行きません。

自分に言い聞かせながら書いております。

「どうすれば?」

「うまく行かんな~」

と湧いている時は、その思いを感じるしかありません。

井上さんの「聞法の方法」に

「① どうしても、どうか(お願いです)「今の身心の状態(本当のこと)」を生きて下さい。

ただ「今」あるだけです。

この方法で、いいのかなあ?と思ったら、その思い、その思いがわいている

「今の状態」を維持するのです。

方法もなにも、ただ、あるだけです。本当のことは、その思い以前にあるのですから。」

とあります。

何度も、何度も目を通し、「その思いがわいている今の状態」・・・

あ~思いがわいていることだな~

これくらい分かるぞ。

と思って、あまり気にしなかった文章も、

その意味さえ理解出来ていなかったと、最近は思います。

前回のブログ後、1日で「その思いのわいている今の状態」・・・「認識している」・・・

どれくらい出来ているか残すようにしています。

最初は25%くらいでした。が

「よし、やるぞ!」とやろうとしている自分が見えだしてからは40%くらいになりました。

先日、新幹線の中で感じたのですが、座って前を見ながら

・・・座席の後ろが見えています・・・

と、すると、前の座席に焦点が行ってうまく行きません。

座席を掴んでしまうと言いましょうか。

以前から感じてましたが、同じように自室に座って前を見ながらやると、

どうも、うまく行かないことが多いです。

微妙に構えているのでしょうか。

不思議に、ざわざわしたホテルのロビーなんかでうまく出来たりします。

座禅を何十年していても悟れない理由も分かるような気がします。

継続します。

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幼子の心

幼子のようでなければ、神の御国に入ることができない』

と聖書にあります。

頭の風通しを良くする、思いを認識する、と書いておりますが、これはあくまで比喩で

ありまして、

リンゴを食べたことのない人にリンゴの味を説明するようなものです。

確かに、頭の風通しを良くする、思いを認識する、も、それなのですが、

「どうすれば」「そうか、頭の風通しを良くするのか」「思いを認識するのか」

「そのまま・あるがまま」とは・・・・

の心の動きの中の行動になります。

「得る」から解放されていません。

「悟りを得る」「信心を得る」

以前にも書きましたが「悟ろうと思わないと悟れないが、悟ろうと思っているうちは

悟れない」

になります。

頭の風通しを良くしようと努力していましたが、思い(不安、美味、スケベ、など)が

湧いて来るところの微妙な動き湧くにまかせてやっておりましたら

そこに、ある心があることに気付きました。

その心の中に思いが湧いては消えて行きます。

その心は、すでに、以前より存在した心です。

子供の頃、単にお腹がすく、眠たい、などの欲求が湧く以外は、不安、スケベ、美味、

旅行・・・など何も知らない、何も湧いて来ない時が時間がありました。

その、何も湧いて来ない「今」を生きていたのが小さな頃の人間でした。

色々経験しました。、色々満足し、色々失敗をし・・・

いつのまにやら心の中はぐじゃぐじゃになってしまいました。

いつも欲望、不安で安定がありません。

しかし、その根底には、幼子の心が流れています。

その心の中に、ぐじゃぐじゃな心が湧いては消え、しているだけです。

鬱陶しい亭主さん的に言いますと、それは認識そのものとも言えるかと思います。

認識がすでにあり、その中に色々な心が湧いています。

湧く心を認識しようとすることもありません。

認識しようとすれば、その心は、湧いている心と同類の「得よう」心になります。

仏教的に言いますと、平常心と言えるかも知れません。

この心を日常で維持していくのが、これからの課題です

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