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2011年1月

現在の自分の状態

今週は二日酔いになったり、お腹の風邪になったりで、体調はあまり良くなかったです。

井上さんとのメールのやり取りを書いてみます。

二日酔いでしたが、午後から、少しやっています。やると言っても「やる気」1つで、ことさら

に努力することはありません。やる気があれば、遅れたり(認識出来たり)、乗れたり(認

識出来なかったり)を自然に繰り返します。乗れてる、と思う感覚、認識している感

覚が、煩悩だとまだ感じませんが、ここを継続するには?と湧いても、すでに、そのままに

なっているので、以前のように、ああしよう、こうしたら、のように動くことはありません。

言葉には言い表せませんが、先週の水曜日から「ことさらに、あらためてはからわな

い」を始めてから、何か変わって来ました。自分に元々あった2つの状態、乗れている

と思っている、遅れていると思っている。この状態が繰り返されているだけです。

井上さん

「ことさらに、あらためて、はからわない」これはいいです。2つの状態が繰

り返し出てきても、その出てきた状態にしておく事です。つまり心の動き・脳み

その働きに「ただ」ゆだねるだけです。継続ですね。

乗れている(認識出来ている)、遅れている(認識出来ない)。この2つの状態を経験してい

くと、乗れていると思っている状態で、認識しているが、認識していないような状態の継続

を感じます。隣で鳴っている音楽の音は聞こえますが、音は次々前へ進んでいますので、

同時進行です。前にある庭の草は認めますが、草は変化しないので、認めたと思った瞬

間にはこちらの意識は前に進んでいますので、認めて認めてない、そんな感じます。

湧いて来る煩悩も感じますが、以前は、湧いて来る煩悩に、こんな心が、こんな心を

と、湧いて来る煩悩を問題にいてましたが、この、認めて認めず、のような、時の最前線

とも言える方が、重要のように感じます。と言いますか、ここを維持しよう、ど

うしたらあの状態を継続出来るか?と考え、井上さんが言われていた、現在の自分の

状態以外求めない。はここの継続と思われます。

認めて、認めず、と言う状態は、頭の風通しの良い時です。どうしたら?が出ても、掴む

間もなく消えて行きます。信心は掴めません。道を求めてない人は掴みっぱなしで、掴ま

ない状態を知りません。煩悩では理解不可能な信心、は、煩悩を掴まない、掴めない、頭

の風通しの良い、認めて、認めず、の継続にあると思ういます。

しかし、継続しようと思っても継続出来ない。少し継続出来たから、あの感覚

を!と過去の体験を掴んでしまう。

根本には継続したいと思っているので、継続するにはどうしたら?と

ああか、そうか、と次々湧いてくる。だから、出来るだけ、継続し

たいと言う心を頭から排除して(掴まないで)、放って置けば、自然に風通しの良い状

態に入る。

そこで、ここを継続だ!とやると、今の状態以外に求めない、から外れま

すので、頭の風通しの良い時は、良い時。頭が閉鎖状態の時(一般人と同じ)はその時、

と任せていた方が、結局、風通しの良い状態を自然に維持しやすいし、風通しの良い

状態そのもの(認めて、認めず)の理解も深まるとやっています。

(思い浮かぶことを書いていますので、少しまとまりのない文章になっております)

井上さん

認識を起こす、思いが出る以前の様子を「信心・悟り・真理」といいます。

「信心・悟り・真理」はいつも自分が認識する、思いがでる以前に事実としてあ

るのです。ですから、「信心・悟り・真理」は考えてわかるものではありません

し、覚えてわかるものでもありません。もうすでに、我々には「信心・悟り・真

理」は認識を起こす以前の様子として必ずあるのです。それが、「現在の自分の

状態」なのです。いつでも、「信心・悟り・真理」というのは、事実としてある

のです。ですので、「現在の自分の状態」だけです。「現在の自分の状態」のみ

です。「信心・悟り・真理」をわかろうと思った、その直前が真理ですので、だ

れもつかめません。つかもうと思ったときは、もう遅いのです。

ここで私は一つの勘違いをしていたことに気付きました。

これまでも「今の自分の状態以外に求めない」にも書いてますが、今の自分の状態と言う

のを、自分の思い(煩悩)と勘違いしておりました。

今の湧いている煩悩以外の状態を求めない、と。

それ以外に「もっと継続出来たら」とやっていたのがダメなのだと思ってました。

この前から言われていた「現在の自分の状態」が信心なのですが、その時の心、ス

ケベな心、不安な心、その自分の心の状態以外を求めないと理解していました。その

時の心のままと。頭の風通しの良い状態を継続するには?と未来のことを求めて、そ

うなろうとするから継続出来ないのだと。今の煩悩のままでいるのが、現在の自分の

状態 なんだと。しかし、この井上さんの返信では、今の自分の状態 とは、もうすで

に、今の自分の~と思った時は、もう過ぎている、自分では認識出来ない、自分の状

態 とのことです。今の煩悩のまま、何も求めない、のと、今の自分状態 と言う、掴

もうと思っても掴めない、今と思った時は、すでに過去。掴めない物を求めるから、

掴んで掴まず。分かって、分からず。竿先なお一寸 です。ちと今までの理解は違って

ました。現在の自分の状態 は、今感じているスケベ心ではなく、スケベ心を感じる、

感じて感じない、もう一寸先のことです。求めたら、現在の自分の状態 でなくなる、

のではなく、現在の自分の状態は、秒針の早い今として次々と前へ進んでいますので、そ

こを求めることです。ならば、頭の風通しの良い状態を継続し、思いの湧く寸前の、自分で

出来だけ、可能な時間の先を維持することです。しかし、今日最初のメールの、働きにゆ

だねるはまだ分かりません。働きのままで一般人では、いつまでたっても 現在の自分の

状態には達しません。

メールここまで。

最後の文章にあります「ゆだねる」。このページの最初の井上さんからの返信に出て来ま

す。実は「あらためて、ことさらに」でこのことに正解を書いていたのですが、煩悩でこねく

り回そうとして、また袋小路になってました。正に反面教師です。

井上さん

働きにゆだねるとは、そのまま・あるがままという事です。ゆだねるとか、そ

のままと、思いこむ事が問題なのです。違ってくるもととなります。ですから、

そのまま・あるがまま・思いの働きにゆだねるという事を、状態を、忘れてしま

わなければ本来の「現在の自分の状態」にはなれないという事です。一般の人達

と、心得た人との違いは、その場その場、その時その時の縁に任せてそれに添っ

ていく、そのような満足、不満足の全くない、ただ縁に任せていく生活が出来る

か出来ないかの違いがあります。以上の事は頭の風通しよくは心得た。秒針のよ

うに早い今の真上にのる事は心得たという上の事です。

この前半に書いてあることは、まさに自分が「あらためて、ことさらに」で書いていたことで

した。

鬱陶しい亭主さん「心を弄り回すのをやめるのがキモです。心は沸くように沸かせておく」

以前にも書きましたが、前半と後半はセットなのです。弄り回すのをやめ、そして心を沸く

ように沸せておく、のでなく、弄り回すのをやめれば、勝手に沸すように湧いている、と言う

ことです。まさに「あらためて、ことさらに、はからわない」です。弄り回す以前の状態です。

鬱陶しい亭主さんの「目的地」にこれと似たことが書いてあります。私は、まだここまでは

達していませんが。

さて、ここで、井上さんからのメールの後半部分に意見を言ってしまいました。

登った先のことを言われても仕方ないと。

禅に「悟ったらどうなるのですか?」「悟ってから聞け!」ってのがあったと思いますが、

今は悟った状態はあまり興味ないです。やりながらも不安一杯(これでいいのか、ダメなん

じゃないのか・・・)ですから、妙好人(浄土真宗の宗教体験を持った信者)の詩読んでも仕

方ないって感じです。

ありがたいな
こんな如来さんは
どこへでも
わたしが行くところに
付いて来なさる
ありがたいな
    (浅原才一)

こんな感じです。

以上の事は頭の風通しよくは心得た。秒針のよ

うに早い今の真上にのる事は心得たという上の事です(井上さん)

▲それはそうなんですが、一般人と心得た人のことを書かれても、求道者、ある程度風通

しを体験出来る、「そのままとは??」と浮かんでも、その「??」をそのまま線香の煙とし

てしまうことは出来る求道者はどうすればいいのかと思ってしまいます。初めての山に昇

るのに、地上の人は、頂上から見た景色が、まさかこんなに綺麗とは思ってないだろうな。

それは登った者には分かります。と言われても、登山の途中登っているものは、じゃ今の

はどうすればいいの?と迷います。登れば綺麗な景色が見える、今は見え隠れする景

色を見落とさないようにそのまま登れ!と言ってもらわないと迷います。

認識でき、自動的にそのまま、線香の煙のように消えて、切って、切って行くことです。

のような、現在の私にへのアドバイスが欲しいです。心得た時のことばかり言われて

も、ある意味現在の私には「そう言うもんかな」でしかないです。

井上さん

そうですね。その通りです。「今は見え隠れする景色を見落とさないようにそ

のまま登れ!」ですね。アッという間に1000回も変化すると言われています。

その変化の流れに乗って流れて、縁に任せていく。これですね。

「今は風通しの良い状態を維持して、思いが湧い

ても、湧く寸前から湧いたことが認識でき、自動的にそのまま、線香の煙のよう

に消えて、切って、切って行くことです。」消して消して、切って切って行く。

これでいいです。常に新しく、常に新鮮に、時の流れに!!です。

迷えば迷いをそのままにしておけば正解なんでしょうが、まだまだガラスのような求道者で

す。それで行け!、とか、これでいい!とか言ってもらいたいものなんです。

失礼な書き方もしておりますが、10年間の親交の上でのこととしてお許し下さい。

その点、一人で黙々と道を進まれた鬱陶しい亭主さんは素晴らしいと思います。

またもや真偽不明ですが、やればやるほど、よく分からんになって来た感じです。

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継続しないと分かりません

ここ数日は不思議な感覚で過ごしています。

これが正しいのかは分かりませんので、そう思って読んで下さい。

やる気はあるのに、やることがない。

こんな感じです。確認出来る状態を継続できるわけではないのですが、継続しようと思いません。

正確には、思わないことはないのですが、継続しようと努力しようとしないと言うことです。

認識出来ている時と出来ない時が交互にありますが、そこをなるように任せている感じです。

何かをやっている実感がないので、中途半端な気持ちで、この道に入る前と紙一重のようです。

もう少し継続してみます。

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線香の煙

心を弄り回すのをやめる(鬱陶しい亭主さん)=平生の刻み(やさしい・しんらん予備校井上

さん)=頭の風通しを良くする(井上さん)。

すべて同じ意味になりますが、これが出来ていると自動的に

心は沸くように沸かせておく(鬱陶しい亭主さん)=脳みその働きに御お任せ(井上さん)=

煩悩が線香の煙のよう消えて行く(井上さん)

となります。

継続中ではありますが、まだ、ブログに書くほどの変化がないのが実情です。

なんで、以下は、井上さんからのメール(10年も前の初期のもの)です。

「湧いて出る」いつでも、どこでも「湧いて出る」。

「心を変えるのでない。」心をAからBに変える変えたいと

すぐ願うものです。

これでは、真実の信心は到底、だめなものです。

変えたい変える、その心の動きに任せる。

その継続の中で、いつか、ある時、

うなずくものがあるのです。

▲「永遠はあなたの心の中にある」 
>               聖アウグスチヌス
>
>  先々週のテレビ番組「世界不思議発見」での

>  最後の言葉です。
>

>  理屈でのみ分かることが悲しきことです。

>  でも、目標でもあります。

永遠とは、心の中にありますが、

永遠を永遠と感じる事は出来ません。

永遠とは、意識認識以前の感じる事の出来ない時間の

事です。「今」の事です。

「い」と「ま」の間(あいだ)です。

捕らえる事のできない「これ」を何となく、フワッと、

しかし、まちがいなく体感する

これです。

時間の流れの中で消えて行くことと解釈しても、また、湧いて出てくる

のが、「まよい」です。消えるのではなく、秒針の今に、湧(わ)こうと

おもえば湧いてくるのです。つまり、すべて「秒針の今」に有ります。

如来の働きの体感とは、「秒針の今」の実感、そのまま、あるがまま、

なにもしない。これです。はい。はい。よろしくお願い申し上げます。

以上です。読み返してみますと頭での理解は深まったように思います。

継続です。

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あらためて、ことさらに

今日はセンター試験です。うちの息子も受験生なので、朝は駅まで送りました。

前記事ではやさしい・しんらん予備校井上さんの「今の身心の状態(本当のこと)を生きて下さい」がすんなりと心

に入ったと書きましたが、井上さんの文章で、またすんなりと心に入ったところがありました。

「『自然法爾章』は、わたしの聞法を導く重要な文言でしたが、この「自然法爾の事」の「はじめて」とは、どういう意

味合いなのかと、長く考えていました。わたしは、「はじめから・もともと」と理解したいと常々思っていましたが、た

またま書店で見つけた本願寺出版社発行の『浄土真宗聖典』の「親鸞聖人御消息一四」(七六八ページ)には、

「はじめて」とは「あらためて。ことさらに。」と註がしてあったのです。なるほど、やはり聞法の要点は、「あらため

て、ことさらに、はからわない」ということかと、深く納得がいったことです。わたしは、「すべて、ひとのはじめて、は

からはざるなり。このゆゑに、他力には義なきを義とすと、しるべしとなり」を、「そのまま・あるがまま」と理解しまし

た」

ここの「聞法の要点は「あらためて、ことさらに、はからわない」、「義なきを義とす」を「そのまま・あるがまま」と理

解しました。がすんなりと入って来ました。

鬱陶しい亭主さんの記事に「心を弄り回すのをやめるのがキモです。心は沸くように沸かせておく。このあたりの

機微を感じ取っていただきたいのです。」

もすんなりと入りました。

「あらためて、ことさらに、はからはない」「義なきを義とす(このやり方で、のないところを正しいとする)」から言う

と、「どうすればいいのか?」「自分の心を観察しなさい」も義となります。

すでに観察している、見えている、自分が気付く前から、すでに見ていた、観察していたとなります。

では、「心は沸くように沸かせておく」はどうかと言いますと、「そうか、沸くように沸せてみよう」ではやはり義と

なりますので、すでに「沸くように、沸かせている」となります。

では自分がすることは・・・前ブログに書きましたように「「平生業生とはよく聞きますが「きざみ」です。刻みです。

平生の、日常の刻みです。一刻一刻、一秒一秒、一瞬一瞬です」であり、

その一瞬を守り「なにものにも思いを寄せず瞬時瞬時を切り落としていく努力、今に遅れない努力でした」井上さ

ん、の努力をすることです。

亭主さんの「心を弄り回すのをやめるがキモです」がこれと同じ意味になると思います。

少し聞法をすれば、フトした瞬間に「認識出来ている状態」を体験します、それが「「あらためて、ことさらに、は

からわない」「義なきを義とす」であり「すでに沸くように沸せている」状態です。???でも、そうです。

後は、その状態の維持をする努力だけです。

「沸くように沸かせる」を、どうすればとか、こうやれば、とか考えないで、その今の自分の状態でいることが、すで

「沸くように沸せている」ことになります。あらためて、ことさらに、沸くように沸せるとは?と考える必要はないと

うことになります。

自分には訳が分からなくても、え?!「でも、沸くようにって?!」と思っても、その思いが、すでに沸くように湧い

ている思いだと言うことです。すでにすべて手遅れの状態です。

私の場合は、書かれていることに合点が行った、と、まだ頭で処理している段階で、それを体験的に分かった訳

ではありませんが、最初の頃のように「見てやるぞ!!」とではなく、今の自分のままを生きようとしている、そのま

まが、「見ている」であり「観察する」であり「そのまま・あるがまま」であると理解した、と言うことです。

理解したと言っても、その実行はた易くはありません。まだまだ、刻みから遅れますし、すぐに、心を弄り回してし

まいます。ここの努力の継続です。

ここを井上さんにメールしました、

「この数日感じますのは、そのまんまが脳ミソの働きのまま。と言うことです。平生の刻み、にさえいれば、我が様

子は、まてよ が出ても、脳ミソの働きのままとは?が出ても、そう思ってることすべてが、すでに脳ミソの動きのま

まになっていると言うことです。しかし、それを完全に体感したのではなく、何か操作が出来ると思っている我がい

るのですが、その様子が、すでに脳ミソの動きのままなのだと思えるようになって来たと言うことです。井上さんの

ホームにありますように「『はじめて』とは『あらためて。ことさらに。』」・・・聞法の要点は、「あらためて、ことさら

に、はからわない」・・・他力には義なきを義とすと・・・理解しました」  この感じです。継続です」

井上さんからは

いいですよ。「縁」にまかせて、そのまま・あるがまま

だけです。どんな事を思うとも、また、その自分をながめていようとも、捨てて

いく事です。常に新しく、新しくしていけばいいのです。湧いたことは、捨てて

捨てていく事に専念ですね」

と返信がきました。

心を弄り回さないとは、頭の風通しを良くする(井上さん)でもあります。

継続します。

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平生のきざみ

連休に高知まで出掛けて更新が遅くなりました。

前回の記事を書いてから調子は良かったり、悪かったりでした。

前日出来ていたことが、今日出来ない。ほんと、これの繰り返しです。

そんな自分にため息をつきながら、連休が終わり、やさしい・しんらん予備校井上さんのホームをふと見たところ、

記事の一番最初の「今の身心の状態(本当のこと)」を生きて下さい」が目に留まり、なぜかすんなりと心に入りま

した。

最近、このブログでも同じような意味のことを書いて来てましたが、おそらく100回くらい読んでいる井上さんのペー

ジですが、ここをやろうと思ったことは初めてでした。

と言うことは、今までは意味を分からずに読んでいたことになります。

確かに「今を生きよ!」とは求道していない人でも使います。

過去にクヨクヨするな、明日を心配するな、今を精一杯生きることだ。

こんな感じでです。

しかし、井上さんの「今」は「平生業生とはよく聞きますが「きざみ」です。刻みです。平生の、日常の刻みです。一

刻一刻、一秒一秒、一瞬一瞬です」と書かれています。

今、今、今、・・・・・・の刻みです。

昨日、井上さんに送りましたメールです。

今日、昼に井上さんのホーム「聞法の方法」最初の「今の身心の状態(本当のこと)」を生きて下さい」がなぜか

にすんなり入って来て、やっとここに絞ってやって行こうという気になりました。

なん十回、いや、100回以上読んでいますが、これほど「ここに書いてあることをやろう」と思ったこと

はありませんでした。ここ最近のやり取りで同じような話があったこともありますが「見る」「認識する」では「今の身

心の状態(本当のこと)」を生きて下さい」となりません。見ようと思っている自分がいれば、それが事実ですから、

見ようと思っている心の状態を維持(そのまま)にしている時、すでに「見よう」と言う心はありません。前へ、前へ

進んでいますから、その「見よう」という思いもすでに過去のこととなって行きます。したがって、「見よう」がなけれ

ば「見ている」もないことになります。

「今の身心の状態(本当のこと)」を生きて下さい」を実行していると自動的に色々な煩悩が湧いては消えて行きま

すが、その煩悩を認識する間もなく前へ進んでいます。煩悩を見ていることすら煩悩、とは1月2日にお話ししまし

が、その見ていることすら、前へ、前へ、で、すでにないに近い状態です。

今日来ました井上さんからの返信です。

この調子です。最近わたしが、よく言う認識・意識が湧く、出るだけの状態、状態だけなのです。

つまり、あるがまま(何が湧いてきても)でいいのです。そのままでいいのです。

今朝は、昨日の状態、状態と言いますか、平生の、日常の刻みの状態にすんなりと入れました。

日々変化があるように進歩していけばブログを書くのも楽しいのですが、ウンウンと唸ってばかりですと、

ブログ更新も間隔が空いてしまいます。が、私の拙い今の経験を読んで下さる方がおられると思うと、頑張らね

ば、と言う思いが湧いて来ます。

模範解答のようなブログでなく、本当に済まなく感じています。

鬱陶しい亭主さんも井上さんも、「まず6ヶ月やってみましょう」と言われてます。

何とか6ヶ月で(3月一杯)で何らかを感じたいと思っています。

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自覚を自覚する自覚かな?

皆様、明けましておめでとうございます。

記事を書いて殆ど書き終えたところで、ちょっとした操作からすべて消えてしまいました。

多少の脱力感と共に書いています。

年末年始と相変わらずバタバタとしておりましたが、2日に名古屋の近くまで行くことがあり、井上さんにお会いして

お話をして来ました。

「聞法をすてる」と言うお話でした。

今日は発表会です」に書いてありますが、

「煩悩を観察する、感じる、見るとは、

ああ、これでよいとか、だめだとか、状態を自分で意識してしまうと、

依然として自分というものが残って、自分というものがあってそういう状態を見ていると言うことです」

ここのお話でした。

この2日は、「このやり方か」「まだダメだ」「いい感じだな」など聞法くさいものはすべて捨てるように、普通の生活

を心掛けて生活しました。

そうはしていても自然と観察している状態にはなるものです。

2日間続けて、信心も、悟りも、真実も、スケベも、ステーキも同じことだと分かりました。

湧いてくる思いはすべて後手だからです。

「方法もなにも、ただ、あるだけです。本当のことは、その思い以前にあるのですから」やさしい・しんらん予備校

上さん

このことが「自覚を自覚する自覚」鬱陶しい亭主さん

と思われますが、その記事にありますように、私にはハッキリと分かりません。

実用の仏教(その5)  観察=放置=捨てること陶しい亭主さん

に詳しく書かれていますが、私が感じたことは、「観察する自分・・・正確には観察しようとする自分」には動機があ

りますが、悟りたい!と言う臭いものがありますが、その「観察しようとしている自分」を観察していることには臭い

もの(動機)はありません。「悟りたい」も「旨いもの食べたい」「あの娘に会いたい」も同じレベルにあります。

今は「今日は発表会です」にある井上さんの言葉が、体験的に良く理解出来ます。

しかし、まだ、これが「自覚を自覚する自覚」かな?の段階です。

まだこれからです。

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